【代表の思い】与えてもらったものを次の世代へ

― 技術と人を残し、家族と地域の暮らしを守る ―

人生をどのように生きるか。
何を幸せと感じ、何を大切にするのか。

それは、人それぞれだと思います。

けれど、人は皆、
知らず知らずのうちに誰かに助けられ、
誰かに支えられながら生きています。

私自身、これまでの人生を振り返れば、
本当に多くの人に助けられてきました。

だから私は、
自分だけが幸せになればいいとは思いません。

誰かの不幸の上に、
自分の幸せを築くような生き方もしたくない。

自分が喜び、人も喜ぶ。

誰かの役に立ち、
その人が喜んでくれる。
その姿を見て、自分もうれしくなる。

そして、その喜びがまた次の誰かへとつながっていく。

そんな生き方ができたなら、
人の心も、人生も、少しずつ豊かになっていくのではないでしょうか。

大切な人を守り、
人とのつながりの中で生き、
自分なりの幸せを見つけながら、
人生の最後に、

「いい人生だったな」

そう思えたなら、
それは、とても幸せな人生なのだと思います。

人は、仕事をするためだけに生きているのではありません。

仕事も、会社も、
自分だけが豊かになるためではなく、
そこで働く人、お客様、家族、仲間、地域の人たちとともに、
より豊かな人生をつくっていくためにある。

私は、そう思っています。

創業15年を迎えて

私は2011年8月に独立し、今年で創業15年という節目を迎えました。

振り返れば、この15年間、本当にいろいろなことがありました。

うまくいったこともあれば、失敗したこと、悩んだこと、「もう無理かもしれない」と思ったこともありました。

そして、仕事だけではありません。

家族のこと、人との出会い、挫折、社員や職人とのこと。さまざまな経験を重ねる中で、私は何度も立ち止まり、自分自身に問いかけてきました。

「何のために働くのか」
「何のために会社を経営するのか」
「自分は、この人生で何を残したいのか」

15年という一つの節目を迎えた今、一度これまでの人生を振り返り、自分がどこから来て、何を経験し、なぜ今このように考えるようになったのかを、言葉にして残してみようと思いました。

これは、成功物語を書こうとしたものではありません。

一人の人間として歩いてきた人生を振り返りながら、これから自分がどう生き、何を大切にし、そして次の世代に何を残していきたいのか。

そのことを、自分自身の言葉で書き残したものです。

家族から始まった私の原点

私は三人兄弟の末っ子として育ちました。

父も母も、本当によく働く人でした。

父は建築技術者として働いていました。私の記憶の中の父は、いつもニコニコしている人です。穏やかで優しく、あまり感情を荒らげるような人ではありませんでした。でも、ただ優しいだけではなく、自分の中にはしっかりとした芯を持っていたように思います。

父も仕事で大変なことや、家族を養っていくうえで不安なことがあったはずです。それでも、子どもの頃の私が思い出す父の顔は、困った顔や怒った顔ではなく、やっぱりニコニコしている顔です。

母も本当によく働く人でした。時期によっては三つのパートを掛け持ちしていたこともあります。

三人の子どもを育て、家族を守るために、父も母も一生懸命働いてくれていました。

子どもの頃の私は、それを特別なことだとは思っていませんでした。父と母が働いていることも、家があり、ご飯が食べられ、学校へ行けることも、どこか当たり前のように感じていました。

でも、自分が大人になり、家庭を持ち、子どもを育て、そして経営者として人の生活を背負う立場になって、ようやく分かるようになりました。

家族を守るために働き続けることは、決して当たり前のことではない。

しんどい日もあったと思います。不安なことも、やりたいことを我慢したこともあったと思います。それでも父と母は働き、私たち三人を育ててくれました。

振り返れば、私の中にある「働くこと」「責任を持つこと」「家族を守ること」という価値観の原点には、そんな父と母の後ろ姿があるのだと思います。

そして父の「いつもニコニコしている姿」もまた、私の中に残っている大切なものの一つです。

幼い頃、奇跡的に助かった命

私が5歳か6歳くらいの頃のことです。

ある日、2階の腰窓に布団が干してありました。幼かった私は、その布団の上に乗って遊んでいました。もちろん、危険なことをしているという意識などありません。

ところが、遊んでいるうちに勢いがつき、そのまま窓の外へ。私は2階から勢いよく落下しました。

下にはブロック塀があり、その上にはアルミの格子がありました。今、大人になってその光景を想像すると、ぞっとします。幼い子どもが2階から落ち、その下には硬いブロック塀がある。頭や体をまともに打っていれば、大けがでは済まなかったかもしれません。

ところが、落下する途中で、私のズボンがアルミ格子に引っかかりました。そのことがクッションのような役割を果たし、落下の衝撃を和らげてくれたのだと思います。

そして、不思議なことに、私は無傷で助かりました。

ほんの少し落ちる位置が違っていたら。ズボンが引っかからなかったら。そこにアルミ格子がなかったら。どうなっていたか分かりません。

当時5、6歳だった私は、自分がどれほど危険な状況から助かったのか、もちろん深く理解していませんでした。

しかし、人生を重ねた今、あのときのことを振り返ると、「一歩間違えば、私の人生は5、6歳で終わっていたかもしれない」と思います。

もし、あのとき命を落としていたら、その後の人生は何一つありません。妻との出会いも、子どもたちの誕生もない。桜咲工務店もない。これまで出会った社員や職人、お客様とのご縁もありません。

そう考えると、今、自分がここに生きていることそのものが、決して当たり前ではないと思うのです。

あのとき助かったことを、私は今になって、「奇跡的に助けられた命だったのかもしれない」と感じています。

だからこそ、この命を何のために使うのか。誰を大切にし、何を残していくのか。そして、いつか人生を終えるときに、「この命を使い切った。いい人生だった。」そう思える生き方をしたい。

幼い頃には分からなかったあの出来事が、人生の後半に入った今、そんなことを私に問いかけているように思います。

不登校になった兄

私が小学3年生のとき、家族で引っ越しました。その後、兄は新しい環境になじめず、学校へ行けなくなりました。やがて家に引きこもり、体調も崩しました。

当時の私は子どもでした。兄が学校へ行かないことを見ても、その苦しさを深く考えることはありませんでした。

その後、兄は生野学園へ進み、先生や友人との出会いによって少しずつ元気を取り戻しました。そして陶芸と出会います。

学校という環境では力を発揮できなかった兄が、自分に合った環境と仕事に出会うことで変わっていった。この経験は、後になって私に大きな意味を持つことになります。

「人に力がないのではない。その人の力を発揮できる場所に、まだ出会っていないだけかもしれない。」

そんな考え方の原点になりました。

兄のためにつくった場所が、私の会社になった

兄が陶芸を続けられるようにと、両親は稲美町に場所を購入しました。そこには喫茶店があり、母はその店を引き継ぎました。

兄のために探した場所が、母の夢をかなえる場所にもなったのです。

その後、兄は結婚して茨城へ。母も喫茶店をやめました。そして年月が流れ、今度はその場所が、私が独立するときの事務所になりました。

兄のためにつくられた場所。母の夢をかなえた場所。それが今度は、私の会社の出発点になった。今考えても、不思議な縁だと思います。

バク転がくれた、小さな自信

子どもの頃の私は、決して自信のある子ではありませんでした。人前に出ることが得意だったわけでもなく、「自分にはこれがある」と胸を張って言えるものもありませんでした。

そんな私が小学6年生の頃、ジャッキー・チェンに憧れました。映画の中で見せるアクションがとにかく格好よくて、私もバク転ができるようになりたいと思いました。

誰かに習ったわけではありません。一人で、何度も何度も練習しました。最初は当然できません。怖さもありました。それでも繰り返しているうちに、少しずつ形になり、ついにバク転ができるようになりました。

人前でやると、「すごいやん!」と驚いてもらえる。それまで自分にあまり自信を持てなかった私にとって、それは小さなことのようで、とても大きな経験でした。

「自分にも、やればできることがある。」

初めてそんなふうに思えたのかもしれません。

一人から始まった器械体操部

高校へ進学した私は、「もっとバク転を磨きたい」という思いから、器械体操部に入りました。

ところが、私が1年生のとき、同級生の部員は私一人でした。そして2年生になると、そのまま一人で部長になりました。

普通なら「部員がおらんから仕方ない」で終わっていたかもしれません。でも私は、友人たちに声をかけました。バク転を教えたり、「一緒にやろうや」と誘ったりしました。

すると、少しずつ仲間が増えていきました。後輩も入ってきて、最終的には15人ほどの仲間が集まる部になりました。

当時の私は、「人を育てよう」「組織をつくろう」などと考えていたわけではありません。ただ、自分が好きになったことを人にも伝え、一緒にやりたかっただけです。

でも今振り返ると、不思議なものを感じます。最初は、自分がバク転をできるようになりたかった。できるようになると、人に教えるようになった。人に教えると、仲間が増えた。そして、一人だったところからチームができていった。

自分が身につけたものを、自分だけのものにせず、人へ伝える。できなかった人ができるようになることを、一緒に喜ぶ。そして仲間が増えていく。

これは今、私が桜咲工務店で目指していることと、どこか似ています。技術を身につける。それを次の人へ教える。できる人を増やす。仲間を増やす。そして、その人がまた次の人へ伝えていく。

今掲げている「技術と人を残す」という考え方の小さな原型は、もしかすると、この頃すでに始まっていたのかもしれません。

そして高校時代、もう一つ、私の人生を大きく変える出会いがありました。

18歳、人生の向きを変えてくれた出会い

高校時代、私は自分の将来に悩んでいました。

自分に何ができるのか。何が向いているのか。これから、どんな大人になっていくのか。

自分に自信がなく、将来の自分の姿を思い描くこともできませんでした。

そんな18歳の頃、私の人生に大きな影響を与える人と出会いました。

両親の知り合いだったその方は、当時32歳でした。けれど、18歳だった私から見ると、とても32歳とは思えないほど魅力的な人でした。

物事の見方や考え方、人との接し方、言葉の一つひとつに深みがあり、年齢以上の人間的な深さを感じる人でした。

それまでの私は、「将来、何の仕事をしよう」と考えることはあっても、「自分はどんな人間になりたいのか」ということを、そこまで深く考えたことはありませんでした。

でも、その方と出会って初めて、

「自分も、こんな大人になりたい」

と思いました。

私にとって初めて、「どんな仕事をするか」だけではなく、「どんな人間として生きていきたいのか」を考えるきっかけを与えてくれた人でした。

そんな私に、その方がかけてくれた言葉があります。

「君が将来自信を持てる大人になったとき、自分と同じように自信を持てずに悩んでいる人を救うことができるよ」

当時の私は、自分自身のことすら信じることができませんでした。

けれど、その人は、そんな私の中にある可能性を、私より先に信じてくれました。

この言葉だけで、突然、自信のある人間になれたわけではありません。それでも、「自分にも、そんな未来があるのかもしれない」と思わせてもらえたことは、その後の私にとって大きな意味を持ちました。

今振り返ると、この出会いは、私の人生における大きな分岐点だったと思います。

もし18歳のあのとき、この人と出会っていなかったら、今の自分はなかったかもしれません。

そして、私に影響を与えたのは、一つの言葉だけではありませんでした。

その方の人柄や考え方、生き方に触れる中で、「人として、どう生きるのか」「自分は、どんな大人になりたいのか」ということを考えるようになりました。

18歳という、これから人生の方向を決めていく時期に、目標にしたいと思える大人と出会えたこと。それは、その後の私の人生への向き合い方だけでなく、人格形成にも大きな影響を与えてくれたと思います。

そして、この経験から私は一つのことを学びました。

人は、自分の可能性を自分で信じられないときがあります。

そんなとき、誰か一人でも、自分より先にその可能性を信じてくれる人がいる。それだけで、人は前を向くきっかけをもらえることがあります。

本人がまだ自分を信じられないのなら、誰かが先に信じてあげればいい。

そして、その人がいつか自分を信じられるようになったとき、今度はその人が、誰かの可能性を信じてあげればいい。

振り返れば、私自身、多くの人に助けられ、信じてもらいながら、ここまで歩いてきました。

だから今度は、私が人を信じる側になりたい。

社員や職人、若い人たち、そしてこれから出会う人たちが、まだ自分では気づいていない可能性を信じ、その人が一歩踏み出すきっかけをつくれる人でありたい。

18歳のとき、「こんな大人になりたい」と思わせてくれた一人の人。その出会いから受け取ったものは、今も私の中で生き続けています。

内定取り消しから、二級建築士へ

高校卒業後、私は建築を学ぶため短大へ進みました。就職活動を経て、建築関係の会社から内定をいただき、「これで社会人としてスタートできる」と思っていました。

ところが、卒業を目前にして、その内定が取り消されました。

周りの同級生たちは就職先が決まり、それぞれの道へ進んでいく。その中で、自分だけ行き先を突然失ったような気持ちになりました。

でも、立ち止まっていても何も変わりません。

「今の自分にできることをやろう。」

そう考え、私は二級建築士の資格取得に挑戦することにしました。勉強を続け、二級建築士に合格することができました。

その内定を取り消した会社は、それから10年ほど後に倒産したと聞きました。

その頃の私は、すでに結婚し、二人の小さな子どもがいました。もし、あのとき内定を取り消されず、そのままその会社に勤め続けていたら。家族を養い、二人の小さな子どもを育て、住宅ローンも抱えていたかもしれません。

そんな人生の真っただ中で、勤めていた会社が突然なくなっていたとしたら。学生だったあのときに内定を取り消されたこととは、比べものにならないほど大きな不安を抱えていたかもしれません。

もちろん、これは後になって分かったことです。内定を取り消された当時の私には、その先の人生など見えていませんでした。あのときは、ただ悔しかった。「なぜ自分が」と思いました。

でも、その出来事があったからこそ、私は二級建築士の資格取得に本気で挑戦しました。

そのときは不幸にしか見えない出来事でも、それが本当に不幸だったのかは、その瞬間には分からない。

何年、何十年と人生を歩いて、初めて見えてくることがあります。

「あのとき、あの道が閉ざされたから、別の道を歩くことになった。」

そして、その別の道で出会った人たちによって、今の自分があります。

内定取り消しは、当時の私にとって大きな挫折でした。しかし今振り返れば、私の人生の進む方向を変えた、大きな転換点の一つだったのだと思います。

あのときの経験から、今の私が思うことがあります。

人生では、自分の思いどおりにならないことがあります。突然、目の前の道が閉ざされることもある。壁にぶつかり、「なんで自分が」と思うこともある。

でも、その壁の前で立ち止まり続けるのか。別の道を探すのか。それとも、その出来事をきっかけに、自分自身が一段成長する道を選ぶのか。

その選択によって、その後の人生は変わっていくのだと思います。

私の場合、内定を取り消されたことで、それまで考えていなかった二級建築士の資格取得へ気持ちを切り替えることができました。

もちろん、当時は「これはチャンスだ」などと思える余裕はありませんでした。悔しかったし、不安でした。

でも、目の前の状況を変えられないのなら、「では、自分に何ができるのか」を考えるしかありませんでした。

振り返れば、人生の中で起きたピンチのすべてが、自然にチャンスへ変わったわけではありません。

ピンチに直面したとき、どう受け止め、何を考え、次にどんな行動を選ぶのか。

その中で、逆に自分が成長する道を選ぶこと。

それが、ピンチをチャンスに変えていくということなのだと、私は思います。

二級建築士に合格した私は設計事務所で働き始めました。しかし、人間関係などにも悩み、「自分は建築業界そのものに向いていないんじゃないか」と思うようになります。

一度、建築から離れようとしました。公務員になることも調べました。まったく違う世界へ行くことも考えました。

でも、何をしたいのか分からない。悶々としていたとき、日建学院から一つの会社を紹介してもらいました。

そこで出会ったのが、後に11年間お世話になる前職の社長夫妻でした。社長と接する中で、「この社長のもとだったら、もう一度、建築業界で頑張ってみようかな」と思うようになりました。

仕事そのものではなく、人との出会いによって、もう一度この世界で生きてみようと思えた。兄もそうでした。私自身もそうでした。

人生は、誰と出会い、どんな環境に身を置くかによって大きく変わることがあります。

2011年、「コンホームズ」として独立

11年間勤めた会社を離れ、2011年8月、私は独立しました。会社の名前は「コンホームズ」でした。

「コン」には「共に、一緒に」。「ホームズ」には、一つの家ではなく「地域にある多くの暮らし」という意味を込めました。つまり、「地域の方々と共に歩み、その暮らしを守っていきたい」という思いです。

独立するときは、前に進むしかないという強い気持ちでした。前の会社に迷惑をかけたくないという思いがある一方、これまでのつながりもあり、背に腹は代えられないという割り切りもありました。

退職前、前職の社長夫妻と食事をする機会をいただきました。そのとき社長から、「あなたは営業が苦手やから難しいと思う。独立は本当に厳しい。たぶん3か月もたないよ。それでも泣いて謝って帰ってきても許さないからね」と、冗談と愛情を込めた言葉をいただきました。

私はそれを、憎くて言われているのではなく、甘えを突き放してくれているのだと受け止めました。「ならば見返してやろう。見といてください。絶対に成功してみせる。」そんな反骨心が湧きました。

同時に、「泣いて謝って帰ってきても許さない」という言葉の奥には、逆に「あかん時は帰ってきてもええんやで」という温かさも感じました。最後には、「奥さんとしっかり話し合いながら頑張りよ」と言っていただきました。

独立後の最初の仕事は、前の会社の頃から面識のあった方が依頼してくださったリフォーム工事でした。本当にありがたかった一方、約1か月かけた工事を終えてみると、思ったほど利益は残りませんでした。現実の厳しさを突きつけられました。

さらに9月、以前から痛めていた腰が悪化し、椎間板ヘルニアで2週間入院することになりました。痛みで眠れず、仕事どころではありませんでした。

病院のベッドで、「本当に3か月もたないかもしれない」と思いました。悔しくて、つらくて、妻にも申し訳なく、どうすればいいのか分かりませんでした。それでも諦めたくありませんでした。

入院中、両親の知人からリフォームを考えている友人を紹介したいという話をいただきました。退院後すぐに見積もりへ行き、工事が決まり、年内に完工しました。約800万円の工事で、約100万円の利益が残りました。本当にうれしかったことを覚えています。

日本建築塗装職人の会との出会い――職人が自ら地域のお客様を守る

ちょうど独立を考えていた頃、私は「日本建築塗装職人の会」の存在を知りました。

そして、青木会長の考え方に触れるようになりました。

今では、塗装職人が店舗を構え、地域のお客様から直接仕事を請け負う「塗装専門店」は珍しくありません。けれど、当時はまだ、今のような形が当たり前ではありませんでした。

塗装職人の多くは、元請け会社から仕事を受ける下請け、さらにその下の孫請けという立場で仕事をしていました。何社もの間に会社が入れば、実際に現場で施工する職人に渡る金額は少なくなります。

どれだけ「いい仕事をしたい」と思っていても、限られた予算と工期の中では、十分に手間をかけることが難しい。職人自身が望んでいなくても、納得できない仕事をせざるを得ないこともありました。

そんな業界のあり方に対して、青木会長は、職人自身が店舗を構え、チラシで自分たちの仕事への思いや技術を地域の方々に伝え、お客様から直接仕事を請け負うという道を切り拓いていました。

今では当たり前に見える「職人直営の塗装専門店」という形。その先駆けとなる取り組みを進めていたのが青木会長でした。

単に「下請けをやめれば利益が増える」という話ではありません。職人が適正な対価をいただき、誇りを持って仕事をする。そして、お客様の声を直接聞き、自分たちの責任で、納得できる仕事を最後までやり切る。

「職人を守ることと、お客様を守ることは、つながっている。」

私は、そこに大きな意味を感じました。

そして青木会長が大切にしていたのは、職人を大切にすること。技術を大切にすること。お客様に誠実な仕事をすること。地域に根を張って仕事をすること。そして、仕事を通じて人を育てていくことでした。

そこには、私自身が大切にしたいと思っていたものと重なる部分がたくさんありました。

当時の私は、今のような経営理念を明確に持って独立したわけではありません。それでも、「職人が誇りを持てる会社にしたい」「お客様に誠実な仕事をしたい」「地元に根を張り、地域の方から長く信頼される会社になりたい」「お客様に寄り添い、何かあったときに安心して相談してもらえる存在になりたい」「そしていつか、自社で職人を抱え、育てていきたい」。そんな思いは、自分の中にありました。

青木会長、日本建築塗装職人の会との出会いによって、自分の中にぼんやりとあった仕事への思いや志が、少しずつ言葉になり、形になっていったように思います。

そして独立から約4か月後の2011年11月、私は日本建築塗装職人の会に入会しました。

入会してからは、何度も本部へ通いました。そこで最初に本格的に取り組んだのが、自分たちの理念や仕事への思いを伝えるチラシづくりでした。

商品や価格だけを並べるのではなく、「自分たちは、どんな思いで仕事をしているのか」「どんな会社をつくっていきたいのか」。それを自分たちの言葉で伝えるチラシでした。

両親をはじめ、多くの方にも協力してもらいながらつくり続け、2012年2月頃、ようやくチラシが完成しました。

本当にこんなチラシで電話がかかってくるのか。正直、半信半疑でした。

まずは事務所周辺へ500枚。両親にも手伝ってもらい、自分たちで配りました。すると、近所の方から1件の見積もり依頼が入り、そのまま成約しました。

「ほんまに電話かかってきた。このチラシ、ほんまに良いかもしれない。」

本当にうれしかったことを覚えています。

当時は、「チラシなんてもう終わっている」「そんなもので仕事が取れるわけがない」とも言われました。

けれど、商品や価格だけを伝えるのではなく、自分たちが何を大切にしているのかを正直に伝え、そこに共感してくださるお客様と出会う。理念や思いを伝えることにも、人を動かす力がある。私は、この経験からそれを学びました。

そこから毎月コンスタントにチラシを配布するようになり、ポスティングスタッフも採用し、事務所周辺から加古川市内へと少しずつエリアを広げていきました。

振り返れば、日本建築塗装職人の会との出会いは、単に仕事を増やす方法を学んだだけではありませんでした。職人を大切にすること。技術を次の世代へ残すこと。地域に根を張ること。お客様に誠実であること。そして、人を育てること。今の桜咲工務店が大切にしている考え方にも、このとき学んだものがつながっています。

だから今も、私が日本建築塗装職人の会に関わっているのは、単に仕事上のメリットがあるからではありません。その理念や、仕事に対する考え方に、今も共感するものがあるからです。

人を雇って初めて知った責任

チラシの効果が出始めた頃、独立からちょうど1年ほどで、職人経験のある最初の社員が入社しました。

うれしい反面、「この人の仕事を切らすわけにはいかない」という責任が重くのしかかりました。

そのとき初めて、前の会社で毎月給与をいただき、賞与をいただき、当たり前のように仕事があったことが、決して当たり前ではなかったと知りました。前の会社に申し訳ないという気持ちにもなりました。

それでも前へ進むしかない。「自分が成功することが恩返しなんだ」と思うようになりました。

独立から1年ほどで借金は1000万円ほどになりました。仕事は不安定で、チラシの反響にもばらつきがあり、競合が増え、相見積もりも当たり前になっていきました。

通帳の底がつく寸前までいき、集金したお金をそのまま支払いへ回す。かなり前のめりの自転車操業でした。

そんな苦しさは外からは見えません。職人が思うように動いてくれず、「なんでやねん」と腹が立つことも何度もありました。

それでも、人を雇う以上、その人には生活があります。そして、その向こうには家族があります。

会社の判断一つが、社員一人だけではなく、その家族の生活にも影響する。経営をする中で、その重さを少しずつ知るようになりました。

人を育てることは簡単ではなかった

仕事が回り始め、職人や従業員も少しずつ増えていきました。チームとして仕事を進めるためにルールをつくり、定期的に会議を開き、細かな取り決めもしていきました。

しかし、ルールを守らない。指示したことをしない。できない理由ばかりを並べて反発する。それぞれが別の会社で積んできた経験があり、新しいやり方を受け入れることが簡単ではないことも分かってきました。

私は「人は環境さえ整えれば簡単に育つ」とどこかで思っていました。しかし、現実はそんなに単純ではありませんでした。

2016年には、学生時代からの友人だった岩田くんが入社しました。その後、経験豊富な職人や他社から移ってきた30代の社員も増え、いよいよチームとして会社をつくろうとしていました。

ところが、信頼して現場を任せていた年配の職人が、私の前で見せる姿と他の職人に見せる姿で大きく違っていたことを、後になって知りました。

毎日の説教、パワハラやいじめ。私の知らないところで、大切な従業員が我慢し、つらい思いをしていました。

私はその人を信用し、「任せておけば大丈夫」と思っていました。そして自分自身も、会社を発展させなければならないと、売上や成長ばかりを見ていました。

足元をすくわれました。会社の中がぐちゃぐちゃになっていくように感じ、「このまま会社が潰されてしまうのではないか」と思うことさえありました。

もう一度、足元を固め直さなければならない。そう決意し、職人や従業員の体制を整理し直しました。会社や仲間にとって良くない影響を与える人には、辞めていただく決断もしました。

これは私にとって大きな授業になりました。

会社を大きくする前に、そこで働く人を守らなければならない。

人を育てることは、本当に難しい。それでも、人の可能性を諦めない会社でありたい。

私自身も現場へ入る機会を増やし、1級塗装技能士を取得しました。経営者として指示するだけではなく、自分自身が仕事を理解し、職人と同じ目線でものを見られるようになりたいと思ったからです。

やがて岩田くんも会社の中心を担うようになり、岩田部長として会社を支えてくれる存在になっていきました。

仕事の品質について、忘れられない悔しさ

お客様からいただいたクレームの中で、特に悔しかった出来事があります。

塗装の仕上がりそのものではありません。養生が不十分で、建物周辺の物置やテラス、植栽などに塗料を飛ばしてしまったことでした。

私は作業前に現場で、「このまま塗装すると塗料が飛ぶから、養生はきっちりしてね」と職人に伝えていました。それにもかかわらず、十分に行われていませんでした。

伝えたのに、やってもらえなかった。そのことへの裏切られたような気持ちと同時に、職人を信頼するあまり、自分が最終点検をしていなかったことにも腹が立ちました。

この経験から、良い仕事とは塗装面だけがきれいならよいのではないと、改めて痛感しました。

お客様の家を、自分の家のように大切に扱う。ただし、それを個人の感覚だけに任せるのではなく、会社として守るべき基準をつくる。

今の桜咲工務店の品質管理やマニュアルづくりにも、この経験はつながっています。

2018年10月、「桜咲工務店」へ

2018年10月、「コンホームズ」から「桜咲工務店」へ名前を変えました。

私は4月に生まれました。母によると、生まれた頃には桜が咲いていたそうです。幼い頃に暮らしていた家の庭にも桜の木があり、私はその桜の春夏秋冬とともに育ちました。

「桜咲」という名前には、自分だけではなく、関わった人の人生にも、その人なりの花を咲かせてほしいという願いがあります。

咲く花は人それぞれ違っていい。咲く時期も違っていい。兄のように、自分に合う環境に出会って初めて咲く人もいます。私のように、人との出会いによって少しずつ自信を持てるようになる人もいます。

なぜ「工務店」なのか

私たちは塗装工事を得意として成長してきました。でも、塗装だけをする会社にしたいわけではありません。

塗装は、お客様との大切な入口です。その後、「雨漏りを見てほしい」「トイレを替えたい」「お風呂を直したい」「これ、どこに頼んだらええんやろ?」そんなときにも相談してもらいたい。

昔の町には、「家のことなら、あそこの大工さんに聞いたら何とかしてくれる」という存在がいました。その人自身がすべてを施工するわけではありません。信頼できる職人や専門業者とつながり、家全体を見守ってくれる。

私は桜咲工務店を、そんな「地域のお抱え工務店」のような存在にしたいと思っています。

入口は塗装。でも、その後は住まいのことなら何でも相談できる。工事が終われば関係も終わりではありません。

5年後も10年後も、「家のことなら、とりあえず桜咲工務店に聞いてみよう。」そう思っていただける会社でありたい。

それが、私が「塗装店」ではなく「工務店」という名前を選んだ理由です。

そして、家族が教えてくれたこと

2020年、息子が学校へ行けなくなりました。その後、家族にとって非常に苦しい時期が続きました。

2022年頃から状況はさらに厳しくなり、息子は眠れない日が増え、過去の学校での出来事や嫌だったことが、そのときの感情とともによみがえるようになりました。言動が攻撃的になることもありました。

私は仕事へ出なければなりませんでしたが、妻や娘は家で不安を抱えながら過ごしていました。近所の音や出来事など、さまざまなことが家族にとって大きなストレスになり、生活環境そのものがマイナスに働くようになっていきました。娘も学校へ行けない時期を経験しました。

そして2023年、息子の状態は大きく崩れました。夜中に家を飛び出すこともあり、私も妻も眠れず、仕事もままならない日が続きました。ある日、病院からの帰りに息子が飛び出し、警察にも協力をお願いし、そのまま入院することになりました。

家族全員が限界に近づいていました。

そのとき私は、初めて本当の意味で自分自身へ問いかけました。

「自分は、何のために仕事をしているんだろう。」

会社を守る。お客様を守る。社員を守る。もちろん、どれも大切です。

でも、一番身近にいる家族が壊れそうになっているのに、会社だけが成長して、それで本当に幸せなのか。

私は、妻や子どもたちが安心して暮らせる環境を優先することを決めました。姫路にある妻の実家の近くへ移ることにし、2024年3月に引っ越しました。

息子は約6か月の入院を経て、2023年12月に退院。2024年には姫路市の特別支援学校高等部へ進み、家族にとって新しい一歩が始まりました。娘も近くの大学へ進学しました。

この経験は、私の経営に対する考え方も大きく変えました。

「家族大切主義」

私は今、「家族大切主義」という考え方を大切にしたいと思っています。

これは、「仕事より家族を優先すればいい」という単純な意味ではありません。

会社も大切です。仕事も大切です。お客様との約束も大切です。責任を果たすことも必要です。

でも、仕事のために家族を犠牲にすることを、会社として当たり前にしたくない。

なぜ人は働くのか。もちろん、仕事そのものにやりがいや使命を感じることもあります。でも多くの人にとって、その根っこには、自分自身と大切な人を幸せにしたいという願いがあるのではないでしょうか。

会社が成長しても、社員の家庭が壊れていく。売上が伸びても、家族との時間がなくなる。役職が上がっても、大切な人を守れない。

私は、それを本当の成功とは思いません。

同時に、「家族大切主義」は、自分の都合を何でも優先してよいという意味でもありません。

家族を大切にするからこそ、仕事にも責任を持つ。仲間に負担を押しつけない。お客様との約束を守る。急な事情があれば助け合い、自分が助けてもらったときには、今度は仲間を支える。

会社と社員が互いに責任を果たしながら、長く安心して働ける関係をつくる。

それが、桜咲工務店が目指す「家族大切主義」です。

社員の向こうにも、家族がいる

経営者になって分かったことがあります。

一人の社員を雇うということは、一人の労働力を雇うことではありません。

その人には人生があります。そして、その向こうには大切な家族がいます。

だから会社は、社員本人だけを見るのではなく、その人が安心して家へ帰り、大切な人と暮らしていけるところまで考えられる会社でありたい。

もちろん、会社が各家庭へ過度に入り込むという意味ではありません。家族の形も、人それぞれです。

だからこそ、一人ひとりが大切にしたい人、大切にしたい暮らしを尊重する。

それが私の考える家族大切主義です。

お客様にも、守りたい家族がいる

そして、この考え方は社員だけのものではありません。

私たちが塗っている外壁の向こうには、人が暮らしています。そこには家族があります。子どもの成長があります。夫婦の生活があります。親との思い出があります。何十年という人生があります。

だから私たちは、単に建物を塗っているのではない。

その家で暮らす人たちの生活を守る仕事をしている。

創業時、「コンホームズ」という名前に込めた「地域の方々と共に、暮らしを守る」という思いも、結局ここにつながっています。

息子から兄へ、兄から両親へ

息子が苦しんでいる姿を見たとき、最初に思い出したのは兄でした。

そして、「兄は、本当はどれほど苦しかったんだろう」と思いました。

さらに、「父と母は、どんな思いで兄を見ていたんだろう」と思いました。

自分が父親になり、同じような経験をして、何十年も経ってから初めて両親の気持ちに少し近づけたように思います。

人は、一人で生きているのではありません。一人が苦しめば、その家族も苦しむ。一人が安心できれば、その安心も家族へ広がる。

だから、一人を大切にすることは、その人の家族を大切にすることでもある。

これは、今後会社をつくっていくうえでも忘れたくない考え方です。

2024年、雹被害で突きつけられた組織の限界

2024年3月、姫路への引っ越しが終わり、まだ落ち着く間もない4月。加古川南部を中心に、かつて経験したことのない大きな雹被害が発生しました。

会社には電話が殺到しました。雨樋に穴があいた。カーポートの屋根が割れた。屋根が破損した。外壁がへこんだ。見積もり依頼は3日ほどで約300件に達しました。

事務員をしていた姉も電話対応に追われ、岩田部長も私も、もともとの現場に加えて雹被害への対応に追われました。

完全に人員のキャパシティを超えていました。

目の前で困っているお客様には対応したい。一方で、従業員も守らなければならない。結局、雹被害の基本的な対応を私一人で抱えるようになりました。

これまでで最も忙しかった一年だったと思います。

この経験もまた、社長一人の頑張りだけでは地域を守り続けられないことを教えてくれました。人を育て、役割を分け、組織として支えられる体制をつくらなければならない。

会社を永続させることは、売上を大きくするためではなく、必要なときに地域を守れる力を残すためでもあるのです。

技術と人を残す

今、私たちと一緒に仕事をしてくれているベテラン職人の中には、60代後半に差しかかる人もいます。

15年前はまだまだ動けていた人たちも、最近は「腰が痛い」「膝が痛い」と言うことが増え、少しずつ限界に近づいています。

では、その後は誰が地域の家を守るのか。

若い職人は圧倒的に少なくなっています。若いと言っても40代という状況も珍しくありません。

このままでは、技術が途絶えてしまう。

でも、私が残したいのは技術だけではありません。

これまでの日本には、腕の良い職人がたくさんいました。それと同時に、仕事に対する思い、人への気遣い、見えないところにも手を抜かない誠実さ、仲間を思う心といった、人間味のある職人の美しさがあったように思います。

商売として作業をこなすだけではなく、仕事に心を込める。古き良き日本人が大切にしてきた「和」の精神も含めて、次の世代へ渡していきたい。

そして、家族を大切にしながら、長く働ける職人のあり方も残したい。

技術だけ残っても、人が幸せでなければ続きません。人だけいても、技術がなければ地域を守れません。

だから、「技術と人を残す。」

その「人」の中には、その人の人生や、その人が大切にしている家族まで含まれている。

私はそう考えています。

特別支援学校で気づいた、もう一つの使命

息子が特別支援学校へ進み、同じような子どもを持つ保護者の方々と接する機会が増えました。

そこで知ったのは、多くの親が共通して抱えている不安でした。

「自分たちが死んだ後、この子たちは生きていけるのだろうか。」

私たち家族だけの悩みではありませんでした。

だから私は、会社という場所を通して、すべてを解決できなくても、働きづらさやコミュニケーションに課題を抱える人が、自分なりの役割を見つけ、安心して生きていくことを少しでも支えられないだろうかと考えるようになりました。

兄の経験、息子の経験、そして私自身が人との出会いによって救われてきた経験が、ここでも一本につながっていきました。

与えてもらった人生を、与える人生へ

私はこれまで、本当に多くのものを与えてもらいました。

父から。母から。兄から。家族から。人生の先輩から。前の会社の社長夫妻から。職人たちから。仲間から。お客様から。そして妻や子どもたちから。

自分一人の力でここまで来たわけではありません。

だから、人生の後半は、自分が与える側になりたい。

自分が受け取ったものを、次の人へ渡す。その人が、また次の人へ渡す。

それが私の考える「恩送り」です。

私がいなくなった後にも、桜は咲く

父が今の私くらいの年齢だった頃、私は高校生でした。その父も、今では80代になりました。

祖父母や、同世代の友人たちの親の生き死にを目にする機会も増え、人生は本当にあっという間だと感じるようになりました。

5歳か6歳の頃、私は一歩間違えば命を落としていたかもしれません。振り返れば、今日まで生きてこられたこと自体、決して当たり前ではなかったのだと思います。

人は、いつか必ずいなくなります。私も例外ではありません。

だから私は、死ぬときに後悔しない人生を生きたい。

会社をどこまで大きくしたか。いくら売上をつくったか。それだけではなく、「自分は何を残したのか」を大切にしたい。

人が残る。技術が残る。仕事への心が残る。家族を大切にする文化が残る。地域を守ろうとする人が残る。そして、それを受け取った人が、また次の人へ渡していく。

桜は満開になった後、やがて散ります。でも木が生きていれば、次の春には、また花が咲きます。

私は、自分の人生の最後を思い描くことがあります。満開の桜を見ながら、自分の人生を振り返り、「いろいろあったけど、いい人生だったな」と思えたら幸せだと思います。

「桜咲」には、自分の人生の花だけではなく、お客様や社員、職人、家族、周りの人たちの人生にも花を咲かせたいという願いがあります。

私がいなくなった後にも、桜が咲く。そんな会社を残したいと思っています。

未来の経営者へ

もし、この人生の物語を一人に託すとしたら。

私は、いつかこの意志を受け継いでくれる経営者に託したい。

私と同じ人間になる必要はありません。私と同じ経営をする必要もありません。時代に合わせて、どんどん変えてください。私より良い会社にしてください。

ただ、変えてほしくないものがあります。

人を大切にすること。
家族を大切にすること。
技術を大切にすること。
仕事に心を込めること。
地域の暮らしを守ること。
そして、受け取ったものを、次の人へ渡すこと。

私に恩を返す必要はありません。私の名前を残す必要もありません。

あなたが受け取ったものを、次の人へ渡してください。その人が、また次の人へ。

それが続いているなら、私はもうそこにいなくてもいい。

桜咲工務店が目指すもの

地域の方々と共に、暮らしを守る。

家族を大切にする。

関わる人の人生に、その人なりの花を咲かせる。

技術と人を残し、次の世代へ渡す。

そして、

「与えてもらった人生を、与える人生へ。」

塗装を入口として、住まいのことなら何でも相談できる「地域のお抱え工務店」になる。

社員も職人も、お客様も、その向こうにいる家族も大切にする。

人を育てる。技術を育てる。次の世代へ渡す。

そしていつか人生の最後に、満開の桜を見ながら、

「いろいろあったけど、いい人生だったな。」
「やり切ったな。」

そう思える人生を生きたい。

それが、私が桜咲工務店を経営する理由です。

お見積りは今すぐお電話を。